マスコミがけっして伝えない 佐村河内守氏会見の盲点
特別プレゼント 2018年5月15日追記
特別プレゼント 2018年5月15日追記
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2014年3月「全聾の作曲家」佐村河内守氏の騒動では報道されなかった重大な問題があった。あなたが「聞こえていない真実」を知ると、歪んだ報道がわたしたちを歪ませている事に気づくだろう。
特別プレゼント 2018年5月15日追記
2018年7月29日 読者から質問のあった所や意見をいただいた所をわかりやすく加筆修正しました。ありがとうございます。話を単純な二元論にしないために、情報が多くなっています。速読ではないので一度に全部を読むもうとするより、章ごとに一時停止して、考えていくことをお勧めします。
2014年3月7日、佐村河内守氏による記者会見が行われました。
「アッコにお任せ」でアメリカの透視者が描いたスキンヘッドじゃありませんでした。おしまい。
・・・まじめに書きます。
聴覚障害・難聴者当事者から見た事実がネット上ではあまり見かけません。
本来なら全日本ろうあ連盟、全日本難聴者・中途失聴者団体連合会関係者が誤解を解くためにも、説明しなければならいのに、ずっと沈黙している状態です。
(補足 2014年3月24日になって、ようやく全日本難聴者・中途失聴者団体連合会から声明が出されました。この手の問題は不完全でも難聴の問題に関しては素早い反論が必要であるにもかかわらず、完全に出遅れてしまいました。内容も犠牲者意識全開だと感じました。ろう協会に至っては沈黙です。)
当事者である私が見た視点で「事実」を書きます。
佐村河内守氏の会見は生放送で少し見たけれど、本当にひどい会見でした。最後まで見ていられませんでした。
後で記事を書くために動画を検証してみました。
マスコミはせいぜい「佐村河内守は本当にスキンヘッドにしたのか?」といったことだけをネタにしておけばよかったのです。
佐村河内守氏は「全聾の作曲家」と嘘をついていたことを謝罪していましたが、マスコミがこのタイミングで暴露したのはおかしいとか、ギャラがどうだったとか、どうでもいいことを言い出すのもどうかしているとしかいいようがありません。
マスコミはそれが聞きたかったのでしょうが。
佐村河内守氏は自分の曲を高く評価した多くの著名人に向けて
「あの曲を障害者の曲として評価したのか、新垣さんの曲だとしても評価するのか」
「難聴で身体障碍者手帳を取得できず苦しむ人たちの存在がいる」
と、問題提起すればよかったでしょう。
そうすれば、皆が考えられる機会にもなったでしょう。
マスコミ関係者がよってたかって、人民裁判よろしく裁き、挙句の果てに会見の本質とは関係ない、佐村河内氏に対する揚げ足取りもありました。
そして、マスコミの質問者の名前と顔は出さない。これが保身でなくて何なのか。おそらく、そのうち顔も名前も隠して取材するようになるでしょう。そうなったら報道といえるのか?と思いますが。
むろん、1ヶ月以上雲隠れして、会見が遅くなった佐村河内氏は信用を失っていて、何も言えるものではないけれど、それ以上に見苦しかったのがマスコミ。
マスコミは、佐村河内氏にだまされた「被害者」であると同時に「現代のベートーベン」「聴覚障害を克服した」として、持ち上げた「加害者」です。
「カスゴミ」と言われてもいいくらい、アホ丸出しです。
NHKなど、佐村河内氏を取材したことがあるのなら、そのくらいきちんと取材するだろう?と、質問した記者が不勉強であることから、無知さを丸出しにしていると言われてもおかしくないような質問も多くありました。
聴覚障害者当事者である私から見ても、聴覚障害と難聴に関しても、全く理解も区別もできていませんでした。
そんな程度で取材したのか?あなた方は全員筆(あるいはパソコン)を折った方がいいだろう?というほどひどい。
会見でも身体障害者手帳を給付されるレベルではないから聞こえるだろうという誤解がひどすぎました。
「私の祖母も耳が悪かったが、彼女はあなたと同じく、耳元で大きな声で話せば聞き取れ、補聴器を付ければ日常生活に支障はなかった。補聴器を試したことはないのか。耳が悪い方が都合がいいのか」
気付いた人もいるでしょうが、この記者は傲慢さと無知さをさらけ出していました。
この質問した記者は調べもせず、個人的な体験で自分の祖母もそうだったから、佐村河内守氏も同じだと決めつけて、質問をするのか?ということ。
「聞こえは個人差がある事さえも知らないのですか?」ということです。
新垣氏への作曲用の指示書をめぐり、妻の母が「文字は娘の字」と指摘したため、筆跡確認を求めると応じていましたが、「『後世に残る芸術的価値』『前例のない宗教性』『佐村河内守』と書くよう求める」(産経新聞)とのことでした。これは会見で求めるようなことか?
「バカか」と思ったのは私だけでしょうか?
ワイドショーでは弁護士が身体障害者手帳の不正取得についてあれこれ説明していたけれど、これは佐村河内氏と横浜市の問題であって、第三者がとやかくいうことではありません。
むろん、新垣氏の話が嘘なら、すぐ反論しなかった佐村河内氏にも問題はあるでしょう。
実は新垣氏の話の裏付けさえもロクにとらず、憶測を事実であるかのように書いている話も混ぜて、こういう問題が起きた時だけ、正義を振り回しても聴覚障害や難聴の問題について、全く無関心だったことについてはどう説明するのでしょう。
マスコミ関係者は裏取りもせず、自分の知識だけで取材していたことは愚かではないのか?と聞かれたら、どう答えるのでしょう。
聴力の再検査の診断書によれば「感音性難聴」と記され、聴力は右が48・8dB、左が51・3dBで、語音による検査では、最良語音明瞭度は右が71%、左29%と記されていたとのことです。
このレベルでは身体障害者手帳交付ではありませんが、右耳だけでもわりとわかるようですが、3割も聞き間違いが起こります。
例えるなら、わたしたちが今使っているパソコンのキーボードのキーが使えなくなくなるようなものです。
↓こんな感じです。
これだけでは話が通じないので、別の方法を用意する必要が出てきます。
だから会見でも手話通訳があったのです。
このことからわかるように、声だけだと聞こえる場合と聞こえない場合があり、そのままでは日常生活でもかなりの支障をきたすレベルの難聴です。
WHO(世界保健機関)では聴力40デシベルからを聴覚障害としています。
日本では当事者が今回の会見で見られたように誤解とコミュニケーションの問題から、責められることを怖れて言い出せないこと、厚生労働省が国際の基準に合わせるのを渋っている現状があります。
耳が遠くなったお年寄りだけではありません。
国際基準では身体障害なのに、日本では障害者ではないとされて、今回の佐村河内氏の会見でも見られた、「聞こえるだろう」と言われ、不利な立場におかれて、精神的な孤独感にじっと耐える人がこの瞬間も多くいます。
実はこちらの方が重大な問題なのです。
なのに誰も言わない、報道もされない。
つまり、マスコミは難聴や聴覚障害について国際基準を知らない、知ろうと調べもしない「バカ」「ヘタレ」だということになります。
そして、黙っていたわたし達当事者にもあるでしょう。その責任は佐村河内守氏と同じくらいあるでしょう。
悪いことに
「向かい合って大声で話せば聞こえる。補聴器をつければ日常生活に支障はない。」
とコメントした、難聴専門を謳う医者がいました。
(唖然・・・)
基礎的なことを知らず、単に西洋医学で、機械で出た数字だけを見て、日常生活での心理的な困難さを見ていないヤブ医者の類です。
そもそも、当事者ではない者のコメントを求めてどうするのか。
そして、わからないのに答える資格はあるのでしょうか。
コメントが切り貼りして報道された可能性もありますが、専門医とされる医者でもこの程度の認識しかない事実があるのだと改めて気づかせてもらえたことに感謝しましょう。
そもそも、補聴器をつけたからといって聞こえるようになるわけではなく、音を大きくするだけの補聴器をつけても十分にわからないことがあるから、「難聴」なのです。
難聴で補聴器を使っても複雑な和声が聞き取れないのは本当です。
簡単にいえばバイオリンなどの音が聞こえなかったりします。
私の場合、補聴器をつけると、楽器の音が混じったような感じになり、聞こえる人達に聞こえているような音ではなく、高音域が小さく聞こえたり、抜け落ちるなど、「ゆがんだ音」で聞こえます。
難聴は大まかに伝音性難聴と感音性難聴があります。この2つが混じった混合性難聴もあります。
補聴器
補聴器は元々、声や音を大きくすることが基本であって、人間の聴覚を代替できるものではありません。
伝音性難聴
外耳道が生まれつき小さいなどの物理的な障害なので、大声で話せば聞こえるし、補聴器をつければ日常生活に支障は少ないといわれます。
感音性難聴
聴覚を感じる感覚神経に障害があり、高音域が極端に小さくなったり、抜け落ちたりする、ゆがんだ音しか、聞こえません。
耳元で大声で話してもわからないことが多いし、補聴器をつけてもゆがんだ音がそのまま大きく聞こえるだけで、よく聞こえるようにはなりません。
先のキーが使えないキーボードもそうですが、視覚的に置き換えるとこんな感じになります。
重度難聴であるわたしの場合を事例にしましたが、聞こえる言葉がクエスチョンマークだらけになります。
佐村河内守氏は聴力検査の「国際基準では聴覚障害に該当する難聴」であるとわかりましたが、これは聞こえる言葉の3~7割がクエスチョンマークだらけになる、と考えて見ましょう。
この状態で「補聴器をつけたら日常生活に支障は少ない」というなら、足が不自由な車椅子の人に「車椅子を使ったら日常生活に支障は少ない」ということを考えてみましょう。
考えれば、無理があることに気付きます。
この聞こえがどの程度か、近い状態をだれでも簡単に確認できる方法があります。
無音室に行く!
・・・は一般的ではないですね。(汗)
「耳鳴りをずっとさせている状態」に近いものとして、両耳でとくに高音域が大きい70デシベル程度の音量で音楽、できたら「交響曲一番」を24時間ずっと鳴らしている状態で3か月生活してみようとするといいでしょう。放送が終わった後のテレビのザーっというノイズ音でも代替できます。
この状態で声がわかる場合とそうでない場合にわかれるのがほとんどです。
日常生活で人の話がよく聴きとれないと、どんなに苦労するか。
そして、耳鳴りにどのくらい耐えられるか。
今回、取材したマスコミやあれこれ言う人は全員、そのくらいやってみるべきでした。
今からでも遅くありません。
ぜひ体験していただき、大きく報道していただきたいものです。
「まだ手話通訳が終わってませんよ?」
と言って、笑ったフリーライター神山典士氏をはじめ、マスコミ関係者達のいじりかたはあまりにも下品すぎました。
改めて、ネットで公開されている会見の映像を、注意深く確認しました。
佐村河内氏の聴力検査が平均50デシベル程度の難聴なら、男性の声が聞こえる音域が30デシベル程度ではないかと考えられます。手話通訳を通さなくても、まだら状態でわかる場合もあります。
(3/13補足)
聴力検査グラフが写った画像を探して検証しましたが、聴力は上記で書いた予想より悪いです。聴力は男性の声が聞こえる音域が45~50デシベルで、高音域が60デシベルとあまりよくなく、このくらいだと聞こえるのは間違いなく「とぎれとぎれ」になります。
また、12年前の診断書も映像ではわからなかったのでネットの画像を見つけて検証しましたが、間違いなく全ろうの状態でした。医師がグルでない限り、偽証の診断書は書けないから、この場合は医師の責任です。
英語がわかる人でも通訳を使うことがあるのと同じで、手話通訳を使うのは聞き間違いを防ぐためです。佐村河内氏の視線の動きからすれば聞こえている場合もあれば、そうでない場合があり、それほどおかしくありません。
佐村河内氏が聞こえているとされた、筆跡を見せて欲しいという質問の辺りの動画を見ました。マスコミ関係者の難聴に関する知識の無さがわかります。
佐村河内守 聞こえている瞬間その2 より
https://www.youtube.com/watch?v=Wt-V6-j8i8U
取材者と佐村河内守氏が1メートル至近に近づいて話をしています。
50デシベルの難聴なら、これだけ近づいて話して話したら、口の形を見たり、声も伝わることもあり、手話通訳なしでも会話は成り立ちます。
佐村河内守 記者会見でキレる
この発言の前をよく見ると「どういうことですか?」「何を謝れと?」と聞き返していることから、この時点で手話通訳が終わっていなかったとしても、不自然ではありません。
視線の動きから、手話通訳が終わっていない状態のため、佐村河内氏はその前の話がわからず「それに対する謝罪は?」だけが、聞こえていた可能性もあります。
叩いているマスコミ関係者は佐村河内氏の物語への取材や演出は熱心にしていたけれど、聴覚障害や難聴について理解も関心を持たず、裏付けも取材もロクにしていなかったこと、難聴に関する想像力もゼロなのがよくわかる動画です。
「僕と口話してください」と言ったのはフリーライターの神山典士氏ですが、当事者から見れば、国際基準なら聴覚障害者の聴力検査結果を「聞こえている」と決めつけており、ふざけるどころか、愚かとしかいいようがありません。
神山典士氏が取材して書いた本が絶版にされた悔しさは理解できますが、その感情を切り離して、冷静に真実を伝える機会なのに、ただ正義感だけで動く「自分は三流だ、自分が書いた本など価値もない」と言っているのと同じです。
イイ年をこいた大人達が佐村河内氏がごまかしの効かない証拠として聴力検査結果をきちんと出しているのに、把握しようともせず、難癖をつけて「聞こえているはずだ!」「キレた!」とつるし上げる様子は、正義に名前を借りた、ただのいじめでしかありません。
神山氏は佐村河内氏に義手のバイオリニストの少女に対する謝罪を求めていましたが、同時に神山氏を含めたマスコミ関係者はこの会見で日本全国の難聴者への偏見に荷担したわけですから、全員が謝罪してけじめをつけなければ、佐村河内氏を批判したり、責める資格はありません。
このゴーストライター事件では本来ならお金をもらってゴーストライターを引き受けていた新垣さんと佐村河内さんのケンカなのだから、裁判をやろうが、第三者はほっておけばいいだけのことです。
この話をあおっている人達に焦点を移すと、
今回、改めてわかったのは日本全国で1000万人いるといわれる難聴・聴覚障害者から「あなた方の目は節穴か?」「羽織ゴロ」と非難されて、つるし上げられてもおかしくないくらい、マスコミは何もわからなかったのか?ということ。
(参考)本当は難聴の人口は多い?
必要な「真実を伝える」仕事さえもできていない。
インタビューで冷静に相手から真実を引き出すために必要なコミュニケーション力が全くないということであり、佐村河内氏をこきおろしている様子は醜悪そのものです。
今回の会見のつるし上げは
ひらたくいえば
「バカがバカを取材して、バカがそれを見て楽しむ」
という構造になっていることに気付きませんか?
佐村河内氏を取材して、「裏切られた!」と考えている人たちは難聴や聴覚障害の困難さについてきちんと知ろうとしなかったのでしょうか?
いくらでも機会はありました。
なのに、見て見ぬふりしてきたといえます。
ただ頑張って努力して克服すれば、健常者並あるいはそれ以上になれるという、未だにある「伝説」を盲信している程度の知識しかないことを暴露していると言わざるを得ません。
繰り返しになりますが、佐村河内氏だけを叩いて煽ろうとするマスコミ関係者はこれまで「聴覚障害を克服した」「現代のベートーベン」と絶賛して書いていた事実に対して、どう責任とるのでしょうか?
公平にするなら、作曲家の三枝成彰さんや作家の五木寛之さん、音楽評論家の野本由紀夫氏らはマスコミを通して佐村河内守氏を絶賛していたわけですから、マスコミ関係者全員が佐村河内守氏と同じように会見を求めて、同じように「嘘」をつるし上げて叩くのがスジということになりますが、保身をはかり、やらないでしょう。
本来なら全員が自分の未熟さを恥じて、筆を折ったり、カメラを壊したり、タクトを折るくらいのけじめをつけるくらいの厳しい責任の取り方が求められます。
ゴーストライターとして報酬を得ていた新垣氏はむろん、レコード会社、イベント会社、指揮者、演奏者、CD録音技術者ら関係者も佐村河内氏作曲のおかげで収益を得ていた以上、被害者などといえるはずがありません。
とくにマスコミ関係者は佐村河内守氏と話し合って、全員が顔と名前をさらけ出して、読者や視聴者に向かって一斉に、共に詫びなければスジが通らない立場です。
それだけではありません。
マスコミは視聴率ほしさに感動的な話を演出しておきながら、都合が悪くなったら、自分に追求が及ばないように、記事では質問者の名前を隠して、正義ぶって揚げ足取りをしている。
「自分達も被害者」として、保身に走るようではスジが通らない。
本来なら難聴や聴覚障害についてもきちんと知り、伝えるべきなのになぜ騙されたのか、過剰な演出を求めたのではないか?
そこを検証しなければならない。
そして、私達視聴者にも「感動を安直に求めた」責任があります。
何も考えない感動だけで、難聴・聴覚障害の問題があることさえも知ろうとしなかったのではないか?
そんな人達が書いた話をお金を出して、知る権利と称して、何も考えずせっせと読んで「知りたい欲」を見たそうとする私達も、マスコミからは視聴率を得るための「エサ」を与えられて、
「ただ求めるだけで、何も考えてない一般大衆」
とせっせとバカにされているわけで、アホらしいし、どうかしているともいえるでしょう。
その意味で私達全員に「責任」があるといえるでしょう。
今回の事件はそのことに気付かせてくれたと感謝しています。ありがとうございました。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
佐村河内守氏が嘘をついた件については、けじめをつける必要はありますが、国際基準では聴力40デシベル以上が聴覚障害の定義であるにもかかわらず、会見でマスコミ関係者達が揚げ足をとったことは難聴に対する誤解と偏見を助長するものでしかありません。
この話を扱った週刊誌を見ても「やっぱり聞こえていた!」などと煽り、難聴に対する誤解と煽りがひどすぎます。
今は耳が聞こえる人でも、病気や交通事故、老化などで耳が遠くならないとは限りません。しかし、難聴についてはわかるよう説明することが難しいこともあり、医者や専門家が誤った説明をしている例が多くあります。
この誤った報道をそのまま放置すれば、多くの難聴を持っている人達が偏見に苦しめられ、沈黙したり、あるいは過去の私のようにただ健聴者並になることを求められて、ポッキリと心が折れてしまったり、社会から孤立してしまうことになりかねません。
それだけでなく、歴史を見ても、和を大切にしてきた我が国の社会で、国民同士の不信感を芽生えさせて、人の過ちを赦さず、ただ責め立てるギスギスした社会になることに荷担しかねません。
難聴に対する無知と誤解からくる煮え湯を飲んだ一人として、わたしたちが「マスコミの一方的な報道に煽られる愚か者」になってしまわないよう、難聴について正しく知る手がかりとなるよう、事実を書きました。
事実を一人でも多くの人に知っていただきたいので、どうかご協力お願いいたします。
2014年3月13日 前川修寛拝
「彼等はきこえない者を愚かとして裁いてきたが、事実はそうではない。彼等はきこえない者よりきこえていないのだ。そんな彼等は自分が狭い枷にはめられて、さらに大きなものに裁かれつつある事に気づいていないのだ。」(口語体)
2014年2月の騒動当時、書いたこの投稿記事は一週間で5万アクセスを集め、それ以来ずっと連日の訪問が多くあります。
我が国の報道に大きく影響して、騒動の沈静化につながりました。
それだけではありません。2016年6月に公開され、大ヒットロングラン上映になった森達也監督の映画「FAKE」への出演のきっかけとなりました。
多くの方々から「あなたの話で大切な事に気づかせてもらえた」と絶賛のコメントをいただきました。佐村河内守氏に新曲の作曲を依頼されたプロレスラーのザ・グレート・サスケさんご本人から「本当の事に気づかせられた」とコメントをいただきました。
佐村河内守氏は全聾だった事は本当でした。本当に聞こえている人間なら、その聞こえない世界を具体的に話できないからです。間違いなく聴力は少し改善されたけれど、今もよく聞こえない難聴です。
わたしが注意して観察した彼の思考からくる言動パターンや行動パターンは間違いなく難聴・聴覚障害者のパターンでした。
聴覚障害者がどんなに訓練を重ねても、きこえる人から見れば不自然さが出ます。これと同じように、テレビドラマや映画できこえる人が手話を使って、聞こえない人を演じたりしますが、聴覚障害者であるわたしにはどうやっても芝居の不自然さがわかります。これと同じです。
早いが話、「聞こえない世界」はまだわかっていない事の方が多い世界です。
「聞こえない」世界を受け入れて、さらに多くの誤解や理不尽な話を跳ね返して、きこえるの感覚でにわかるように説明する事は物理、精神的にも困難です。
1億人の日本人に向かって印象報道で大騒ぎして、注目を集め、一時的にフェイクへ誘導したとしても、そのエネルギーはわたしたちの無知さと人の良さそして思考停止を利用した、空虚なものです。
実際は裏取りすらしていなかった人達の話が、わたしがその人生を持って体験してきた、真実のみが持つ途方もないエネルギーに太刀打ちできなかった事に気づきます。
いうなれば、広島で竣工した戦艦大和に対して、銀玉鉄砲で立ち向かって、46サンチ砲で返り討ちにあったのと同じです。宇宙戦艦ヤマトの波動砲でもいいでしょう。
当時の佐村河内守氏の聞こえの状況について、未だに「聞こえている」という残念な人たちがいるので書きます。
彼は間違いなく、音はきこえても、それが何の音なのかよくわからない状態でした。
視覚障害は目隠しすれば体感できますが、難聴や聴覚障害は耳栓をしても体感できません。
耳栓をした時の聴力は25デジベル程度で、補聴器で訓練なしで補正できるレベルです。それ以上についてはわかっていないことが多くあります。
人間の頑張りでなんとかなるのは耳栓をした程度までと考えた方がいいでしょう。
耳栓をした時の聞こえ方は全員一律で同じにはなりません。個人個人の脳で聞こえる音声の補正処理にばらつきがあるためです。このため、Aさんは高音域の単語が聞こえても、Bさんは高音域の単語がよく聞こえないといったことがあります。
映画「FAKE」で森達也監督の鋭い質問に対して、わたしが聴覚障害についてわかるように話していますが、実はあの台詞は意識して話していません。神から直に下ろされた台詞を伝えたものです。「神」が気に入らないなら「インスピレーション」でもいいでしょう。どちらも同じです。
映画の撮影で、記者会見の時は口の形を見て話をしていたことを佐村河内守氏ご本人から確認しました。
聞こえている人の感覚で例えるなら、暗闇で見える看板の形らしきものがおぼろげにわかっても、文字など何が書かれているのかわからないのと同じ状態です。
聞こえる音がわからない状態という意味では「全聾の作曲家」という表現は間違いなく正しいものです。
わたしたちは医者や学者が何でも知っていると思ったら大間違いです。医者や学者は絶対ではなく、誤る事もあります。
医者のいう話は医学という狭い枠での話でしかありません。医学は万能でも完全でもありません。現実にわかっている事、説明できる事はごく一部であり、耳鳴りの詳しい仕組み、脳の働きなど、医学では説明できない事実の方が多いのが現実です。
「100デジベルの聴力」というのは概念として知っていても、それがどんな世界なのか、わかるように説明できる医者は実際に聴覚障害を持っている当事者である医者をのぞいていないのが実情です。
※日本では聴覚障害を持っている医者もいます。
医者も様々で患者と寄り添って真摯に病因を解明していこうとする人もいれば、日々の診療者を右から左へと流す人もいます。
医学が全てをわかっているというなら、歴史において大正時代から昭和初期における口話訓練のごく一部の成功事例を「聴覚障害者は訓練すれば聞こえる人並みに話せる」と誤って決めつけて、当時のメディアがこの成功事例を過度に持ち上げていた例があります。
この話が当事者と家族達には災いとなり、社会の誤解や偏見に長く苦しめられてしまいました。
この事例は音が小さく聞こえる伝音性難聴であり、音が歪んで聞こえる感音性難聴では実現は困難です。当時の医学でもまだよくわかっておらず、説明できていなかった事が原因でした。
現に存在するものを「ありえない」として、否定するということは、自分の理解を超えているものを見ようとしない、聞こえていない、考えられない愚者でしかないという事になります。
映画「FAKE」でわたしが話した聴覚障害の説明は我が国の歴史ではじめての、わかりやすい表現で伝えました。映画をご覧になった日本中の多くの人達が「そうだったのか…」「自分が想像していたのと全然違う」「そんなに大変だったのか…」とわたしに直接コメントを寄せてくれました。
「医学でこういっているから正しい」というなら、2014年3月の記者会見の前に「過去の診断結果に不正はなかった」と国から公式な声明が出されている時点で終わっています。横浜市役所で大騒ぎしていたメディア関係者達はこの大切な話を報道せず、BPO(放送倫理・番組向上機構)の報告書では完全に抜け落ちていました。
当時、佐村河内守氏を追い落とし、名声と曲を横取りすべく調子に乗った神山典士氏がSNS上で佐村河内守氏の過去の女性スキャンダルを大々的に公募していたのをわたしも含め、多くの人達が見ていますが、数日で取り下げられました。
彼等が多くの事実を歪曲したり、時系列順を変えて書いてきた事は既に明らかです。
例を挙げると、個人との私的なやりとりであるメールを佐村河内守氏の許可無く公開したり、話の時系列順を入れ替えていましたが、森達也監督がそれを映画「FAKE」で見事に皮肉っています。
高い評価を得たマンガ「淋しいのはアンタだけじゃない」(吉本浩二著 小学館)の対談「ある漫画家が、新垣隆さんにどうしても聞いておきたかったこと」では、新垣隆氏との対談が行われています。
編集が入っているとはいえ、その話はつじつまが合っておらず、自己正当化や印象だけで話をしてきたことは明らかです。
吉本浩二氏へのインタビュー記事「耳の聞こえない人は、世界をこんな風にとらえていた」で一部が紹介されていますが、文章や映像では表現できなかった「難聴はどう聞こえているか」などの話がマンガという媒体を活かして見事に描かれています。
このマンガ「淋しいのはアンタだけじゃない」1巻の冒頭から、難聴・聴覚障害を何も知らなかったという吉本氏と編集サクライ氏が読者視点で疑問を持ちつつ、真摯に調べていった結果、次第に現在の医学でもまだわかっていない驚きの事実がわかります。
あなたがこのマンガ「淋しいのはアンタだけじゃない」を読むと、読まなかった人より大きな気づきを得られるでしょう。
このマンガは難聴・聴覚障害当事者、そして要約筆記者や手話通訳の方々は絶対に買って読んだ方がいいです。
新垣隆氏は難聴・聴覚障害について何も知らなかったと言っていますが、じゃあどうして「佐村河内守は聞こえている」とわかり、告白できたのでしょうか。
彼は対談で「日常生活で支障の無い程度の難聴だ」と弁明していますが、日常生活で支障がないなら、それはもう難聴ではないことに気づきます。芸人モドキの露出をして、音楽家として重要な想像力すらない事に気づきます。
吉本浩二氏と編集サクライ氏は言葉こそ丁寧ですが、話に一貫性がない新垣隆氏に対して、記事では次第に非常に辛辣な扱いになっていることに気づきます。新垣隆氏側がこの対談記事の存在を外部に積極的に広報してこなかった時点で都合が悪いのだと気づきます。
芸人モドキで聞こえない人を馬鹿にするパフォーマンスをしている人の例を見ましょう。
音楽家として重要な想像力に欠けている芸人モドキのパフォーマンスは「醜悪だ」と世間の強い非難を浴びました。わたしでも目の前で侮蔑する意味でやられたら、容赦なく殴って蹴飛ばすでしょう。
最初は「野々村議員が・・」と言い訳をした新垣隆氏は佐村河内守がそうであったように、活動を速やかに停止して、謹慎、音楽CDも回収して、自粛すれば立派だったのですが、それすらなく、吉本浩二氏とサクライ氏の対談では「人権侵害となる話を報道するはずがない」と週刊文春に責任を転嫁しました。
新垣隆氏に責任を転嫁された、週刊文春と神山典士氏は誤った内容については訂正しないままです。例を挙げると、佐村河内守氏とのメールのやりとりの無断公開はまちがいなく人権侵害ですが、疚しいから訂正できないのでしょう。
この件で読者から「吉本氏との対談で謝罪しているのでは?」との質問がありました。対談相手の吉本氏とサクライ氏は当事者ではありません。最低でも佐村河内守氏に対して、直に詫びなければならない事です。その場しのぎの言い訳でしかないことに気づきます。
そもそも、神山典士氏、新垣隆氏両人は映画出演の依頼を拒否して、逃げた時点で負けたのです。
彼等が、我が国の聴覚障害者の歴史において、最高峰に到達した「権威」を持つ前川修寛とスクリーン上で堂々と対決していれば、話は変わったでしょう。
映画の劇場公開時、神山典士氏は「残酷なるかな、森達也(※読んでも時間の無駄)」で出演拒否した理由を歴史的にも醜悪な駄文を並べて書き、森達也監督に嘘をついている事を指摘されて、情けなく逃げていました。
賢明な読者の方から指摘をいただきましたが、新垣隆氏も事務所の方でに完全に矛盾だらけの説明をしていますね。
彼等は取り巻きの売れないライターや難しい専門用語を並べ立てるだけで売れていない音楽家、これも売れない肩書きだけの評論家達を使って、事実と異なるマッチポンプの駄文をせっせと書いて、印象誘導でバッシングの再現を狙っていました。
当時、神山典士氏がSNS上で聴覚障害者の方に問い詰められて、論点をずらして言いくるめようとしていたのを多くの人達が見ています。
さらに売らんが為に子供達をダシにしてきた時点でもはや言語道断です。事実が報道されてきた話とはほど遠い事は私も把握していますが、映画に出る時、この話はしないと佐村河内守氏と約束しました。
森達也監督も橋本佳子プロデューサーも筋を通して映画には出していません。
しかし、神山氏と新垣氏達と関係者、彼等は度々嘘をついているので、良心が麻痺しているのでしょう。おそらく「謝ると死ぬ馬鹿につける薬はない」病気なので、訂正できないのでしょう。
「一億総白痴化」を言ったのは評論家の故大宅壮一氏です。そして、神山典士氏が受賞したのは、実は「一億総白痴化賞」だったのです。
2016年まで「一億総白痴化賞」ならぬ「大宅壮一ノンフィクション賞」なる賞がありました。この賞は日本文学振興会が出していますが、週刊文春のある文藝春秋ビル内にあります。
わたしたちが故大宅壮一氏に敬意を払う意味で「大宅壮一ノンフィクション賞」を「一億総白痴化賞」と読み替えても差し支えないでしょう。他意はありませんよ?
2016年に公開された映画「FAKE」でも「一億総白痴化賞」授賞式で森達也監督が表彰者となり、その大切な式典を神山典士氏が欠席している様子が紹介されています。
しかも、翌年の2017年から名前が変わっています。間違いなく、映画でこれらの事実が知られたからだと気づきます。賞の名前が変わるのは「賞を無かった事にしたい」と無意識に暗示している場合もあります。
当時、佐村河内守氏のご両親が親族の方々にもひどい事を言われ、絶縁された話を映画の中で話しています。当時の異常なバッシングの空気の中、無理もないとはいえ、大変痛ましい話です。
その中で親族の方は「『一億総白痴化』賞を受賞した神山典士先生が言う事だから間違いない」「マスコミが間違った事を報道するはずがない」と言ったそうです。
ご親族の方は年代からしても1957年の「一億総白痴化」はご存じのはずです。そして、自分が「フェイク報道」に踊らされて「白痴」の一人にされた事、この騒動以降、週刊文春の記者が顔と名前をモザイクなどで隠すようになったことは知っているのでしょうか?
わたしの想像ですが、佐村河内守氏が自身の聴覚障害をわかるように説明できなかった事、親戚の方を大切にしてこなかったかもしれない事など多くあるかもしれませんが、それは親族同士で話しあう事であり、外野がとやかく言う事ではありません。
ただ、今生でご縁あって繋がったのですから、時にはケンカもするけれど、助け合い、仲良くして欲しいと願わずにいられません。
芸術やスポーツで人が限界を超えていく様子を見て、感動しない人はまずいません。
映画「FAKE」のラストで流れる佐村河内守氏が独自に作曲した音楽「レクエイム」は絶賛されましたが、同時に「粗い」という指摘があります。それは否定しません。なにしろ、一人でわずか24日で作曲したものですから。
「粗い」「クラシック音楽は楽譜が書けなければならない」と力説する話はわたしも読みましたが、重箱の隅をつつくような話でしかなく、ではどうしたらよくなるのかといった具体的な提案すらありませんでした。
「なるほど、ではあなたは耳がきこえなくても自分は完璧にできるんですね?」と、評論家モドキの粗探しの類いが世の中で一番役にたたない事に気づきます。
その「粗い」と指摘された部分ですが、耳がきこえないとよくわからない所です。
実際、ある人が目が見えない事を知っていて、補助なしで複雑な漢字を筆で奇麗に書くべきだと言ったら、「人でなしだ」といわれるでしょう。
目の見えない人が補助なしで複雑な漢字を筆で書けたら奇跡であるのと同じように、難聴で聴覚に入る音が不明瞭で、なかなか認識できない状態で、想像力でここまでできたら奇跡だと気づきます。
読者からも質問があったのですが、ここは聞こえる人と聞こえない人の感覚と認識に大きな段差があるので、次のように書きましょう。
作曲ではこうなります。
映画「FAKE」でも別の形で話していますが、感音性難聴の人が補聴器をしても聞こえるのは、脳が補正できるレベルを超えた、不明瞭な音です。要約筆記の方々や字幕スーパーなどに助けられているように、聞こえない人には補助するアシスタントも必要になります。
アシスタントを受けていた有名な事例として、江戸時代の盲人学者の塙 保己一(はなわ ほきいち)がいます。古代から江戸時代までのありとあらゆる日本の文献をまとめあげた、『群書類従』を編纂した人であり、ヘレン・ケラーが励みにした人です。
塙保己一はメディア業界にとっては神様に等しい存在だと気づいているでしょうか?
彼が編纂した『群書類従』はメディア業界が無視できない歴史的にも重要な文献であり、彼が工夫した独自の20字×20行の400字詰の様式は音読に便利なだけでなく、原稿用紙として現在も使われています。
彼は文字を見ることはできないけれど、音読されたものを残らず暗記することができました。それを頭の中で編纂して、口頭で述べて、それをアシスタントが書き起こししていました。
しかも暗記する文献は今のようなひらがなの多い文章ではなく、漢字表記など古典の表記です。音読だけではわからない表記が必ず出てきますから、表記がわかるアシスタントが文字起こしの段階で修正してくれた事は想像できます。
同じように佐村河内守の作曲に新たに音楽がわかるアシスタントがついて、調整と試行錯誤を重ねていけば、よくなっていく事は間違いないでしょう。
きこえない不自由を補うため、作曲には工夫した独自の設計図を書き、アシスタントを使っていたことを叩くなら、偉大な先人である塙保己一を同じように叩き、彼を手本にしたヘレン・ケラーそして、メディアや自身を叩かなければ、筋が通らない事に気づきます。
読まれた方から、作曲当時使っていたのが機能が限られたシンセサイザーであった事もその要因ではないかとの指摘をいただきました。ありがとうございます。そこは私も気づきませんでした。確かにオーケストラの楽器演奏と比べる話が、粗探しでしかなかった事に気づきます。
貴重な経験に裏付けられた「権威」は神からの贈り物であり、誰も奪う事ができません。
社会的地位や何かの賞を受賞して、テレビや雑誌に出たりして有名なのが権威だというなら、それは偽りの権威です。カツラや帽子と同じ程度でしかなく、風が吹けば、簡単に首ごともっていかれます。
その意味でわたしが自身の耳が聞こえない人生で経験してきた事は文字にできないしんどい事や苦しい事もありましたが、鍛えられたおかげで誰もが奪うことができない強い「権威」に育ちました。
当時、上の方で書いた醜悪な記者会見がネット上で多くの、とくに難聴・聴覚障害者の強い反感を買い、出席していた記者達が攻撃され、炎上したことは報道されませんでした。
今ではよかったと思います。もし、報道されたら、取り返しのつかない事になっていたでしょう。今だから書けますが、当時のわたしも強い怒りを抱きました。
当時はわたしに「神山典士氏らを攻撃して欲しい」と多くの難聴・聴覚障害者達からの相談がありました。前向きではないからと丁寧に断りましたが、社会の無知や誤解から来る理不尽な扱いに耐えてきた難聴・聴覚障害者達の怒りは凄まじいものがありました。
もし、わたしがこうした怒りに同調して、メディア関係者の首を丸ごともっていけと煽るような事を書いたらどうなったでしょうか。もしそうなったら、日本中の聞こえる人と聞こえない人やメディアとの間に修復不可能な亀裂が入りかねない、と想像しました。
だからこそ、強くブレーキをかけて言葉を選んで書きました。
今読むと、それでも相当怒っていたことに気づきますが、この話を書いてから、新聞やテレビなど多くのメディアのアクセスがこのブログにあり、その結果、歴史的にも醜悪なこの騒動は鎮静化を始めました。
後に多くのメディア関係者と話をすると、「あの騒動と記者会見は明らかに度を超えていた」と同じ事を考えていた事に安堵しました。
気づいてくださったメディア関係者の良心と勇気に感謝します。
上の方で「やがて顔を隠して取材するようになる」と書いたのが本当になりました。
この騒動で「フェイク」が発覚して以降、週刊文春の記者は映像では顔と名前をモザイクなどで隠すようになりました。
売上げのために取材した記者がモザイクで顔と名前すら出せない「汚物」になっている時点で、他人の醜聞を知りたがり、何かと評論する人達、反応して罵声を浴びせている読者も、同じだと気づきます。
2018年1月の音楽家小室哲哉氏のスキャンダル疑惑報道においても、「不倫」と決めつけられた報道がされていました。
ワイドショーでもあわてふためく小室哲哉氏を叩く騒動になる事を期待しているフシがありました。
ところが、小室哲哉氏は誠実な記者会見を行い、C型肝炎にかかっていること、皮肉な事に片耳がまったく聞こえない状態であること、病気の奥様がいるため、24時間体制で訪問看護を依頼していると、恥ずかしながら性欲は減退していて女性と云々という欲はないことなど、醜聞とはほど遠い事実がわかりました。
そして引退を明言しました。
事実が異なっていた時点で週刊文春の記者は詫びて速やかに訂正すればいいものを「本意ではない」などといって、ごまかした結果、週刊文春は美味しい売上げどころか、日本中の小室哲哉氏のファンを敵に回しました。
直後にタレントとの対談で新谷学編集長が見え見えのパフォーマンスをしていましたが、記者の顔と名前も出せない、訂正記事すら出せないのなら、記者だけでなく、週刊文春も全ページにモザイクをかけるのが筋が通っています。
ついでに醜聞や事実を歪曲して、印象やご都合主義で報道する新聞や週刊誌、ワイドショーや情報番組でこうした話を叩くコメンテーターモドキとタレントも永遠に映像や音声にモザイクをかけて、変な配慮で名前を隠して、最近の流行で書くなら、「メンバー」とでも書いておいた方が世のためでしょう。
メディアを叩いて廃刊に追い込んでも、関係者が売上げが欲しい別のメディア媒体に移るだけです。従って、確信犯的にフェイク報道の類いをくり返すメディア、その関係者が関わるメディアは見ない、読まない、関わらない、買わないのが一番です。
この騒動をふくめ、フェイク報道に踊らされてきた事に気づいた人は年々増えています。
ただし、あなたが失敗した事の無い完璧な人間でない限り、いきなり他人に汚い言葉や罵声を浴びせるのはやめましょう。他人に完璧である事を求めると、自分も同じように完璧でなければならない事になります。
確信犯はさておいて、人を活かすも殺すも言葉次第であり、本当に誤ってしまったことに気づいていないメディア関係者、限られた条件で事実を伝えようと試行錯誤している人も多くいます。
反対にメディア側にもいえることです。失敗の事実や教訓を伝えようとする人に対してどのような扱いをしているでしょうか。売上げや視聴率のためにと、世間へのさらし者にしていないでしょうか。
わたしたちもメディアが報道する話が全てではない事、世間へのさらし者にするメディアに煽られない、選ばない賢明さがもとめられることに気づきます。
最初から完璧である事を前提とするのではなく、わたしたち全員が不完全である事を認め、誤りに気づき、速やかに詫びて訂正した事を褒めて、励みになるようにしていくことも大切な事でしょう。
誤りを訂正する勇気を持っている人、とくに若い人達が罵声を怖れて、訂正できなくなってしまったら、罵声を浴びせるのが当然、というような人達をそのままにしているわたしたちが原因を作りだし、それを放置している事になります。
自分が他人に完璧である事、理想通りである事を前提とするなら、自分も完璧であり、理想通りでなければならないわけですから、そこに対立の種が生まれる事になります。
聖書にある次の一句を思い出します。
「犬が帰って来てその吐いた物を食べるように、愚かな者はその愚かさをくり返す。」(箴言 第二十六章 第十一節 口語訳)
あなたは不快に感じるでしょうが、強烈な印象を残すため、あえて汚い表現で書きます。
「醜聞やゴシップの類いの報道を垂れ流し、それを進んで見たり、きいたり、読むのは、見知らぬ誰かのケツから垂れ流される汚いモノを喜んで食べるのと同じである」 前川修寛
本当にきつい言葉ですが、同時にわたしたち全員にもいえる事です。
報道される内容を鵜呑みにして、妬みややっかみで思考停止して、無関係の有名人をバッシング、それを煽られて一緒に汚い言葉で罵声を浴びせて、一部の人達だけが大儲けする仕組みです。
神山典士氏達は明らかに限度を超えて「佐村河内事件」「ペテン師と天才」などと名付けて、警察が出る案件でもないのに、犯罪であるかのように印象誘導で言葉巧みにわたしたちを煽って、佐村河内守夫妻はこの騒動で社会的に犯罪者であるかのような扱いをうけました。
彼は度をこしたバッシングに弱音をはくこともあり、わたしが叱責したり、認識のずれからケンカもして、本音を言ってくれて、やっとわかった事もありました。
彼はわたしと同じように神から贈られた「権威」を持つ者として、揺れ動きつつも、本当の原因が前の自分自身の心構えなど自分の弱さから招いてしまった面もあった事にだんだんと気づいていきました。
彼はそうさせまいとする人達をはねのけて、必ず復活して、再び京都コンサートホールで新たに生まれ変わった曲を演奏するでしょう。
メディア業界は意図的な不作為と印象報道によって、地に落とされた佐村河内守氏夫妻の名誉を早く回復しなければ、年々業界への信用が失われ、売上げが減っていく動きが加速している事に気づいているでしょうか。
今回の騒動で使われた手法は以下の通りです。
ナチスの宣伝の天才ヨーゼフ・ゲッベルスは「十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう」と言ったと伝えられています。
印象操作を交互にひたすら垂れ流して騒ぐことで、デマをこれでもかと次々と投下していき、飽和攻撃によって、考えるための客観的情報を与えず、どぎつい情報で視聴者の感情を煽って、洗脳していきます。
わかりやすい言葉を何度も、何度も、何千回も繰り返す、とくに聴覚のくり返しは視覚以上に効果的な手法です。
実際、ワイドナショーでは連日「ゴーストライター」「盗作」「ひどい事をした」「きこえないフリをしている」、これらのわかりやすいけれど、事実ではない言葉が何度も連呼されていました。
実際には間違いも多く、とくに自分たちに都合の悪い事実は絶対に訂正しないことで、視聴者にメディアは絶対に間違いをしない完璧な存在だと思わせて、主体性の低下、自信を失わせて、メディアに思考までも依存するようになります。
あなたが「メディアがそんな間違った報道をするはずがない」「メディアの言う事は正しい」と考える人であれば、間違いなく自分の思考の主導権をメディアに渡しています。
ゴシップネタの方が売れるから仕方が無いという話もありますが、いまや10~20代の6人に1人がテレビを見ないとのレポートが出ています。最近は若い人が新聞や雑誌を定期購読しなくなっており、テレビを見ない人が全ての年代で増えています。
【全年代でテレビ離れ:「若者のテレビ離れ」加速 6人に1人「1カ月以内にテレビ視聴なし」】
(2018/5/18 ITmedia)
売らんがために確信犯でフェイク報道を重ねてきたメディアは無音室に放り込んだ方が静かになるかもしれません。
週刊文春のある文藝春秋社は近年は雑誌や本が売れなくなっていますが、当然でしょう。
日本雑誌協会(雑協、JMPA)が発表している印刷証明付き部数によると、週刊文春は佐村河内守氏に関わる一連の騒動があった2014年1~3月は69.8万部ですが、2018年1~3月は60.9万部と8.9万部もわずか4年で大きく減らしています。
この騒動に限らず、売上げのために限度を超えた汚いモノで人の失敗を散々に煽り、テレビのワイドショー番組に映像を売って、虐めるなどしてきた週刊誌を平気で出し続けて、人権侵害であるメールの無断公開やフェイクも多くあることがわかった「汚物」ともいえる単行本を平気で出す、いわば垂れ流しておいて、身内の醜聞には沈黙するマルチスタンダードなメディアが信用されるはずがありません。
その一方で事実を伝えようと試行錯誤しているメディアもあります。
先の吉本浩二氏と編集サクライ氏のマンガ「淋しいのはアンタだけじゃない」は惜しくも連載時点では売れなかったそうですが、お二人の真摯な姿勢は素晴らしいし、不完全な話であっても、あえて載せたビッグコミックスピリッツ編集部の判断は素晴らしいし、小学館さんも完璧ではありませんが、こうした姿勢を見ると、「あ、信用できるな」と思うのです。
意見や立場は違えど、それを許容していく担保が目に見えない「信用」であり、信頼関係なんだと思います。わたしはなかなかその事がよくわからなかったのですが、今回の話でやっと気づきました。本当にありがたいことです。
古代から伝えられてきた話があります。
聖書の一文ですが、わたしたちがメディアの話とどう向き合うとよいかを示してくれる貴重な言い伝えです。
最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。(ピリピ人への手紙4-8より)
この話の反対のものを心にとめていたらどうなるか、考えると気づきます。
最後に、わたしと同じように、難聴や聴覚障害をもち、この騒動もふくめて、これまで辛い思いをしてきたかもしれない、あなたのために書きます。
わたしたち難聴・聴覚障害者は、ワンランク上に行くためのいわば「魂の昇級試験」を受けているのかもしれません。
難聴・聴覚障害は肢体障害など見た目でわかりやすいものと異なり、きこえる人が想像する事は困難なため、誤解も多くあります。
でも、この感覚を他人にどうわかるように伝えるか、そして自分自身のあり方も採点対象になっているとしたらどうでしょう。いたずらに怒り、悲しんだり、嘆くようなことはできるだけ答案用紙に書き込まない方がいいことに気づきます。その上で「きつい」と思う事もそれでいいのです。
この事は映像や文字といった媒体では100%伝える事は不可能です。
ただ、ヒントになる一部を映画「FAKE」で語られなかったある事実の中で、提示しました。あなたが自ら考えぬくための材料になれば幸いです。
あなたとお会いできる日を楽しみにしています。ありがとうございます。
そして、最後まで読んでくださったあなたに幸いがありますように。
ここまで読んでくださったあなたのために書きましょう。
2015年6月の京都嵐山の対談で森達也監督に「守さんはどうすればいいと思う」ときかれて「新垣隆氏の手が入っていない新しい交響曲一番を作曲すること、新曲を作曲して、作曲できる事を証明すべきです」と話をしました。
「同じ事を友人にもいわれた」と答えており、その場にいた全員が大きくうなずいていました。
この撮影が映画「FAKE」となった時、スクリーン上で神山典士氏と新垣隆氏との対決にこれらのシーンが使われたかもしれない所を彼等は情けない事に逃げました。結果として、彼等は日本全国ばかりか、世界中の嗤い者になりました。
映画では2人の外国人ジャーナリストの訪問取材の後に新曲の作曲を始めたかのようになっていますが、映像を見ると、6月の蒸し暑い話のあと、いきなり冬服のシーンです。
森達也監督が話していたように、時系列順が入れ替えられており、彼が外国人ジャーナリストの取材を受けたのは撮影が始まってまもない時点の映像で、その時は明らかに作曲できない状態でした。
神山典士氏と新垣隆氏らが報道で「佐村河内守は耳が聞こえている」「作曲できない」趣旨を度々発言していましたが、新垣隆がいなければ作曲はできるはずがないと計算しての発言だったのでしょう。
佐村河内守氏は音が明瞭にわからなくても、想像力、すなわち人間の理解を超えた存在からくる閃きから、あれだけの曲ができるという見事な事実を示してくれました。
おもしろい事にこの事実を肯定的にとらえた人達は例外なく豊かな人達でした。反対は言うまでもないでしょう。
佐村河内守氏がわたしに連絡をとってきた当時、度重なるバッシングに心が折れており、マスコミの取材におびえて、疑心暗鬼になっていました。
当初、映画のように外国人ジャーナリストが正論を指摘しても、作曲どころではなかったのは無理もありません。人間はそんなに強くありません。
しかし、2015年6月京都嵐山での対談が新曲を作曲するきっかけとなった事は確かです。実際、メールだけでも喜びがわかるほど、前向きになっており、曲が完成した時も真っ先にわたしに報告してくれました。
あなたのために大切な事を提示します。
耳が聞こえないわたしが映画への出演依頼を受けたとき、考えた事は「どうしたら佐村河内夫妻に安心してもらえるだろうか」でした。
長期間外出できなかった佐村河内守夫妻に配慮して、京都市のJR嵯峨嵐山駅前のホテルビナリオ嵯峨嵐山、社会福祉法人全国手話研修センターでもあるここを対談場所に提案して、短時間とはいえ、嵐山を散策してもらいました。
それらが実現したのはわたしの提案を受け入れてくれた橋本佳子プロデューサーと森達也監督の人柄によるものです。
この事実をどう考えるかはあなた次第です。
大ヒット映画「FAKE」
映画「FAKE」で語られなかったある事実
佐村河内守 森達也 橋本佳子 ザ・グレート・サスケ FAKE 小学館 全聾の作曲家 難聴 手話 聴覚障害 淋しいのはアンタだけじゃない 新垣隆 神山典士
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