自分を伝える事の大切さとは?
他人はあなたのことをあなたほど知りません
あなたの心に平安が生まれますように
あなたの心に希望が湧きますように
あなたの心が前向きに進む勇気が湧きますように
あなたに幸せと富と豊かさがやってきますように。
あなたはきちんと伝えていますか?
難聴・聴覚障害は外見からではなかなかわかりません。
他人はあなたほどあなたについて詳しくありません。
「相手が難聴を理解してくれないから悪い」という人をよく見ます。
難聴・聴覚障害に限らず、「見えない身体障害」をどう伝えるかは人それぞれ異なってくると思います。
見えない障害を伝えるためのマーク、バッジやステッカーを作って配布しています。
それを伝えられるかは、本人が身体障害を持つを受け入れられていることも1つの要素になるかもしれません。
私が自分に注意している事は「相手が難聴を理解してくれないから悪い」と考えるのではなく、自分がどういう状態であるか、相手にどうして欲しいかを明確に伝える事は自分の責任だと考えるようにしています。
私は初対面の方によく次のように話をします。
「わたしは耳が聞こえないので補聴器を使っていますが、それでも聞き落としがあるかもしれません。すみませんがよろしくお願いします。」
または
「ごめんなさい。騒がしくて、よく聞こえないので筆談で書いていただけませんか?」
と伝える。
これを実施した所、うまくいきはじめました。
この考え方を役員を務めていた難聴者団体で話した所、私をよく思わない老人達に嫌われました。(笑)
ネット上の掲示板でも否定されたり、叩かれました。
「難聴を理解すべきだ!」
「あなたが間違っている!正しくない!」
「社会が悪いせいだ!」
「障害の害はひらがなで書け!」
などと、おもいっきり攻撃されました。
ワーワー批判する人達の言葉で、あることに気づきました。
相手にわかるように伝えないのは相手にとって存在しないのと同じことなんですね。
自分の短所も大切なものです
自分が好きな人と自分が嫌いな人とでは話が合わないことを前提に書きますね。
鏡に写る自分を見て、「自分の顔が嫌だ」「恥ずかしい」と感じたら、自分を嫌っているところがあるといえます。
身体障害を持つ自分を嫌ったり、自分をおとしめる人は珍しくありません。
自分の短所や身体障害を嫌ったり、まるで厄介者のように扱ってしまうこともあります。
その状態で自分に腹をたてて責めたり、他人に攻撃的になったりする事も珍しくありません。
わたしのところに来られるお客様の話を見て行くと、人間関係で問題を抱えている人の多くが無意識に自分を嫌っていたり、自分を悲劇の主人公ぶる人もいます。
悲劇の主人公ぶっていたら、理解という名の同情を買いたいのですねと距離を置かれるだけです。
多くが自分を受け容れられない事から来ています。
なぜ自分が嫌だと思うのでしょうか?
確かにわたしたち聴覚障害・難聴者は聞こえる人のようにできない事もあります。
私が行っている1つの方法を書きましょう。
たとえば、わたしは電話ができません。
できても聞き間違いや聞き漏らしだらけです。
わたしの事をよく知らない美女から「電話してちょうだい」と言われたら、できません。美女が嫌なら男でもいいでしょう。
「なんでこんな事を言うんだ?」と腹を立てる人も多くいるでしょう。
女性の方は「なんで電話してこないのかしら・・・私にはご縁がなかったのかしら」と思っているにも関わらずです。
わたしに電話ができないのは「事実」です。
だからといって感情のおもむくままにまかせて、腹を立てても解決しません。
ではどうしたらいいのでしょうか?
そこで自分がどう反応するかを、意図的に選択するようにしています。
腹を立てるのではなく、次のように言う事も選択できます。
「電話もいいねえ。話していなかったけど、僕は耳が聞こえないから電話が難しいんだよ。でも顔が見えない電話より、顔を見ながら話した方が楽しいよ?」
相手を立ててあげたうえで、自分のことを説明する。
そのうえで相手が本当に聴覚障害が嫌なら「しょうがいないね」です。(ダジャレです。)
もし、自分の短所や身体障害を嫌ったり、切り離してしまえば、 本当の自分自身を見失う事になってしまいます。
「自分が嫌いだ」は「自分を嫌ってください」と同じ
インターネットの掲示板など、不特定多数の場で社会に対する不満や文句や愚痴を延々と綴る人を見かけることがあります。
私は内輪で言う分には否定しませんが、不特定多数が見る場ではやらない方がいいと思います。
無関係なのにとばっちりを食らったりするからです。
- 「自分が嫌いだ」
- 「身体障害のある自分を認めたくない」
- 「身体障害があるから権利を要求する」
他の人はそんな人をどうやって認めて、好きになればいいのでしょう?
人生の目的は「正しい事」ではありません。
「身体障害がない人生」が正しいのでしょうか?
それは否定しません。
私も時々、話の聞き取りがスムーズにできたらなあとちょっとだけ思います。
しかし、先の私を批判してきた老人達で、人生がうまくいっているという人は1人もいませんでした。
彼らは意識していませんでしたが、正しい事にこだわるあまり、「ただしくない自分」を嫌っていました。
悲しいことですが、自分の中から短所や身体障害を切り離そう、理解してもらおうとして、無意識に自分自身を社会から切り離しているのではないかと感じました。
わたしたちが、短所や身体障害を厄介なものとして見れば、物事を一面からしか見ていない事になってしまうのではないかと思います。
多くの人が知らずにこの落とし穴にはまっているのではないかと思います。
わたしは難聴・聴覚障害も含めた身体障害というハンデがある事で気付く事、学べることがあると思います。
とくにコミュニケーションについては「言葉」の意味に聞こえる人より気づくことも多くあります。
いろいろな考え方がありますが、まず、
「自分のハンデを受け入れる」
ことに意欲的になってみませんか?
長い間の考え方を変えるのは工夫も必要です。
実はこれができるようになれば、とてもつない力を生み出します。
わたしのセッションにいらっしゃる方でも一度や二度でできるようにはなりませんが、それでも何もしない人よりだんだんとできるようになっていきます。